#みねるばメモ

メモです

20191027

人間とは

何らかの形式のなかに、自覚的な知性が見出されると、それは人間とみなされる。自覚的な知性というのは、非自明な振る舞いを生む装置みたいなやつ。そうやって人間とみなされたものたちの振る舞いには予測の出来なさ、唯一性、そういうものが付帯する。だからこそ、人間は自然の一部として以上の特別な価値を認められるし、互いにリスペクトし合える。そういうことを書いてる文章を読んだ。逆に、自覚的な知性を見いだしてもらえず、人間とみなされなかった人類を何人も見た。彼らは十分に学術で成果をあげ、普通の生活を送っているように見えるのに、人間とみなされず、クソみたいな扱いを受ける。こういうのを見るたびに辛い気持ちになった。端的に言えば、発達障害者がいじめられてるという程度の話だと思う。

上記の見出しをやる基準は人それぞれだが、ある程度の統一をみることができるような気がする。一方で、そこらへんの人たちを見てみると、それらに比べて自分の基準は比較的強めの前提を要求しているように思えた。この差分は何なのかよくわからないが、とりあえず「オタク性」とか呼ぶことにする。まあなんかものに名前をつけることは大事だし、この命名は妥当だと感じる。とにかく、自分は人が対象に知的好奇心を働かせて取り組んだり、対象と自己の関係に頻繁に思いを馳せる様子を見ずには安心して彼/彼女を人間だとは思えないのだろう。バカバカしい選民思想だと思う。アイヌが自分らをアイヌと呼んでるみたいなやつが延々と続いてるだけ。

詩を書くということ

知人が詩の本を出すらしい。詩というものがよく知られている現代では、誰しもが詩を書きたいと思うことがあるだろう。自分も度々そういった発作にかかる。

たぶん、詩を書くことは戦いだ。想い人に詩を読まれ、叫ぶ人を見た。誰にも詩を読んでもらえず、苦しむ人を見た。詩を書くことは辛く苦しいことだ。生まれながらに岩倉文也ではないという罪を償い続けることだ。言い換えの連関のなかで座標系を定めることかもしれないし、書かなかった無数の言葉たちを捨てた責任を取ることかもしれない。それでも、詩は、なにもない俺たちが人に気づいてもらえる、最後の手段だと思う。

かくいう俺は、詩を書いたことが一度もない。実はこのセクションも、詩を書こうと思って設けたものだったのだが、見ての通り俺は書いていない。俺は臆病者かもしれない。この臆病さを大切にして、詩など一度も書かぬまま、すべての言葉を墓場まで持ってゆきたい。

一途さ

なんだかんだ変わった高校に通っていたと思う。周りには統計的に多数派ではない性志向の人間、あきらかに異常な性癖の人間たちが溢れていた。それに比べると、大学では支配的な性規範に適合的な、あるいは、そういった価値観を積極的に支持する人間が多いように感じる。つまり、一途さが重視されるというわけだ。俺がそういうクソしょうもないコミュニティに属してしまっているというだけの話かもしれないが。

たとえば、入学当初は各所で逸脱的な振る舞い(要するに嫌がらせ)を続けて多数の人々に嫌われていた俺だが、恋人との交際が続くにつれて明らかに評価が上がっていき、再び関わりを持つ人が増えた。あるいは、ある異性に片思い(遠巻きに眺めたり、ツイッターで頻繁に話題にする程度のこと)を続け、その進捗を逐一インターネットで報告していた人が、その過程のなかで周囲の人々から同情を買い、あるコミュニティ内での立場を高めていくなどの事例が見られた。逆に、そういった価値観に則らない振る舞いをした結果、タコ殴りにされる人を何人も見た。こういった事象たちを眺めていくにつれて、一途さというのはある種のコミュニティにおけるフリーパスとして極めて強い効力をもつということを知った。

よくよく考えると、一途さの効能を利用するためには、なにも本当に「一途」である必要はない。そのふりをすればよいのだ。恋人がいなくても、恋人がいるふりをする。それらしい写真をインターネットに投稿し、時折架空の恋人とのエピソードを披露する。幸せそうに振る舞うことで、恋愛相談などを持ちかけてきた不幸そうな女を食う。そういうやり方もあるかもしれない。

実例です。この人4月に俺の彼女含め複数人に手出してたと思うんだけどどうなったんだろ。